
MTBウェブ小説「インナー×ロー」 12話「ツープラトン」 | Cyclist
雄一と桜子が仮想王滝に行ってきたのは10月の下旬のことだった。仮想王滝というのは文字通り、王滝っぽい林道にトレーニングに行くことを指す。2人の場合、小瀬木に教えて貰った秩父にある林道だが、アクセスには電車を利用した。いわゆる輪行である。輪行とは自転車を専用の袋に入れて電車で移動することを指す。

■あらすじ
佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。
■登場人物
佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。
山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。
始発電車に乗り、新宿で私鉄に乗り換え、秩父方面へ。駅前でマウンテンバイク(MTB)を組み立てた後、軽く朝食。そして出発。所詮林道なんだからトレイルと比べたらどうということはないと雄一は甘く見ていたが、後に激しく後悔した。林道にアクセスするまでまず上り坂。林道に入ってもひたすら上り坂。MTBだから林道なんて楽々だろうと思ったが、未舗装で荒れた坂道を上るのは結構注意を要する。しかもずっと上りだ。
「こんなんで根を上げていたら王滝なんて行けないよ」
「いや、そんな、僕、王滝に行くなんて一言もいってないんだけど」
林道の上りではひたすらインナー×ローでくるくるクランクを回し、後輪が浮き砂利で滑らないように注意し、ずっとシッティング。最初はカーブが現れる度にその向こう側が下りになっていないかと期待したが、そのうち、切り立っていない側を見上げて、ああ、まだまだ上りが続くんだ、と諦めることを覚えた。王滝の感想で桜子が言っていた通りだ。それにようやく慣れてきた頃、一休憩して、携帯ガスストーブでお湯を沸かしてカップラーメンを作り、早めの昼ご飯を済ませる。下りはあっという間に終わった。朝降りた駅に戻ってきた時には走行距離は40キロ程度。仮想王滝の練習にはいいに違いないが、それにしても疲れた。実際、桜子もこう言っていた。
「確かに見た感じはそっくりで練習にはなるね。だけど、上りは短いし、まだまだ路面が荒れてない。こっちは舗装されてるも同然だよ。仮想はやっぱり仮想だなあ」
「どんだけ王滝すごいんだ」
帰りの電車の中、雄一は呆れて声を上げた。
「そりゃ完走率は8割くらい、天候が悪いと5割ちょっとってレースですから」
「『君は生き延びることができるか』の世界だな」
雄一は苦笑するしかない。休日でも比較的車内が混雑し始めていたが、2人は最後の車両の端に他の客の迷惑にならないよう気を配って輪行袋を置いている。都営新宿線に乗り換えた後は、先月のデートの話題になった。
「王滝といえば上野は楽しかったねえ」
「そう言って頂けると嬉しゅうございますな」
「でも御徒町から西洋美術館までは遠かった」
「旧岩崎邸庭園を経由したからね」
それでも彼女の体力を気遣って早めに切り上げたのだ。
「でもボランティアのガイド付きで面白かった~。ガイドさんがいるといないとじゃ、ああいうところは面白さが全く違うよね。ミニコンサートやってる時にまた行きたいな。佐野倉さんって意外と高尚な趣味を持ってるんだねえ」
「お金を掛けないで楽しめることを追求しただけなんだけど。君と会う前からふらっと公園回りはしていたな。けど、今度はMTBで行けるといいね」
「そうだね……」
桜子は疲れた様子で、目を伏せた。席はまだ疎らに空いている。
「自転車は僕が見てるから、君は座ってきなよ」
「そんな、悪いよ」
「悪いなんてことないよ。今日は僕、まだそんなに疲れてないから」
「やっぱり佐野倉さんは男の人なんだよねえ……なんだか最近、疲れやすくなって。じゃあ、お言葉に甘えます」
王滝のダメージが抜け切っていないのだろう。彼女は荷物と自転車を雄一に預けて空いた席に腰を掛け、瞼を閉じた。彼女に頼って貰えることが嬉しい。今まで自分を引っ張ってきてくれた彼女と一緒に歩いているように思われる。都合良く使われているとは考えられなかった。眠っている桜子の横顔を見ながら、いつまでも彼女を見ていられればいいのに、と思った。
翌朝、雄一は愛車にまたがって1人で会社に向かった。桜子は有休をとって連休にしているとのことだったから、寮から直接、荒川サイクリングロードへ赴いた。片道14キロの通勤路は強い向かい風の時と雨天は別にして、もう苦にならない。すっかり秋の風になっており、涼しく、走っていて気持ちがいい。緑の色が変わり始めている。ようやく来た秋を雄一は快く迎えた。これも自転車に乗り始めた効用だ。電車通勤を続けていたら、きっと気がつかなかっただろう。桜子に感謝しつつ、雄一はサイクルスタンドにMTBを固定し、出社した。
社内の人間関係も少し変わり始めていた。自転車通勤を始めたことで、会話のきっかけができて、同じフロアの人間と話をする機会が増えた。時には柏木が会話を繋いでくれることもあった。少し職場の居心地が良くなったのは、桜子のお陰だと思えた。人間関係を築くにあたって、素の自分をある程度見せる必要があったのかも、と思えた。その素の部分が自分の場合、自転車だったのだ。
そつなく仕事を終えて、国道14号と荒川サイクリングロードを経由して一之江に戻り、フォルゴーレに立ち寄る。加藤ら店の常連と馬鹿話をして缶コーヒーを飲み干し、家路につく。もうとっぷり日が暮れていた。その道すがら、雄一は駅方面に向かう後ろ姿の桜子を見つけて声を掛けた。
「おーい。桜子ちゃん! 昨日はお疲れ様でした」
そして彼女は振り返り、ポカンと小さく口を開けた。
「え、あれ、ひょっとしなくても桜子姉のお知り合いですか?」
よく似ているが別人だ。髪は背中までかかり、服装も彼女と違って落ち着いた感じだ。しかし背格好や雰囲気がとてもよく似ていたので、雄一は彼女だと思ってしまった。雄一はその場でスタンディングしつつ、答えた。
「あ、もしかして噂の妹さん?」
「はい。祥子といいます。今日、姉のところに寄ってきたんです。ひょっとして佐野倉さんですか?」
「僕のこと話題に上がってるんだ?」
スタンディングが限界に達し、雄一はトップチューブをまたいだ。
「はい。自転車仲間で便利な男の人がいるって言ってました。あれ、これ、言っちゃいけなかったみたいです、ね?」
「これっぽっちも否定できないのが辛いところだ」
「でも今日の桜子姉の話題は佐野倉さんのことばかりでしたよ」
「そうか……それはちょっとは期待抱いてていいのかな?」
雄一はぐっと拳を握りしめた。
「佐野倉さんは面白い人ですね」
「そうかな? 最近ポジティブになったとは思うけど。これもお姉さんのお陰だよ」
「それは良かったです」
「しかし本当によく似てるなあ。美人姉妹なんだね。暗いところだと区別つかないよ」
「やだなあ。佐野倉さんって本当に軽いんですね。私なんか、桜子姉と比べたら
いつまで経ってもお子様で……」
「軽いなんて聞き捨てならないな。美人に美人と言って何が悪い」
祥子はプッと噴き出した。
「まあ仕方ない。ついでだからお軽いお兄さんにナンパされてみない?」
「はあ?」
「家族が知っている彼女がどんななのか興味あるんだ」
「私も私が知らない桜子姉に興味がありますね」
「じゃあウィン・ウィンだ。財布は僕持ちで、ちょっと夕食兼ねてお茶しよう」
祥子は笑顔で頷き、雄一はXCバイクを押し始めた。
雄一は一之江ではなく葛西方面に少し歩き、環七から少し入ったところにあるカフェに祥子を案内した。外装は白塗りの壁に内装は南欧風でウッディな家具とナチュラル系の雑貨で統一されており、いい雰囲気だ。店内をぐるりと見回して祥子が言った。
「オシャレですねえ。桜子姉と来る店ですか?」
「どうしてクリティカルで痛いところを突くかな。そういう関係ではないんだって」
「いつかは来ようと考えていて今日は偵察?」
「そんなところだね」
雄一はテーブル席に陣取り、祥子も腰を掛けた。
「私は千葉の実家から東京の大学に通ってまして、たまにこうやって桜子姉の様子を見に来るんですよ。桜子姉も通えない距離ではないと思うんですけどね」
「一人暮らしして考えたいこともあったんじゃない?」
雄一は手早くオーダーし、祥子も続けた。
「財布持ってくれるって信じてますよ」
「大丈夫。しかし祥子ちゃん、知らない人によくついていく気になったね。危ないよ」
「アパートに2人きりで、酔った姉に手を出さない人なら安心でしょう」
「うう。そんなことまで話しているのか」
「でもそれくらい自制心が強くないと桜子姉のお眼鏡には適わないかな、とは思いますよ。桜子姉がそんなに気を許しているってことにも驚きましたが」
祥子はお冷やに口を付け、間を置いてから雄一が訊いた。
「でもお姉さん、学生時代はモテてたでしょう?」
「たぶん、それなりに。中学の時はよく男の子たちを引き連れて下校してましたよ。高校は女子校だったから分からないですけど、大学の時に、何かショックなことがあったみたいで、それっきり男なんてって雰囲気バリバリ出してましたね」
「そぉかぁ……」
桜子が男嫌いを公言していたと、柏木が言っていたことを思い出した。
「桜子姉、外では大抵テンション高いですけど、家の中では真面目でお堅いんですよ。そこがいいんですけど。彼女は私の自慢の姉です。美人で頭が良くってしっかりしていて、本当に幸せになって欲しいって私は心から願っています」
祥子はまっすぐ雄一を見た。あんまり桜子に似ているものだから雄一がドギマギしてしまうほどだった。
「――僕もそう思うよ。彼女は恩人だから」
「恩人、ですか?」
祥子が訝しげに聞き返したが、雄一は答えなかった。
しばらくして料理が運ばれてきて、祥子は笑みを浮かべた。彼女が注文したオムライスはなかなかのモノだったし、雄一のパスタも盛りがよく良心的なお値段だった。祥子は携帯端末で皿を撮影し、ついでに雄一とパスタも撮っていた。
「こんなの君の彼氏に知られたら怒られちゃうかな」
「ウチの彼氏は理解がありますので。それにこれくらいで揺らいじゃうような関係じゃありません」
祥子は露骨に照れ笑いをした。
「一緒の大学なの?」
「いえ、大学は別です。あいつとは高校で一緒になったんですが、ご近所さんですし、元々家族ぐるみのおつきあいですから」
それはなんとも羨ましい話だ。
「で、僕は祥子ちゃんのお眼鏡に適ったのかな?」
「そんなのまだ分かりませんよ。ただ、第一関門はクリアですかね。もしかして何年後かに『お義兄さん』なんて呼んでいる可能性はゼロではありませんし、今日のところは無難に答えておきます」
「それはまた気が早い。残念ながら今はまだ単なるお友だちだから……」
「桜子姉の方はかなーり慎重に佐野倉さんを見定めている気がしますよ。一方それを感情が邪魔しているっていうか……そんな感じですかね」
なるほど、本音ってのはそういうことか、と雄一は1人で納得した。慎重さをかなぐり捨てて、探りを入れてしまったに違いなかった。
「ところで、もちろんクリスマスは桜子姉を誘うんですよね?」
祥子にツッコミを入れられ、雄一はパスタを噴き出しそうになった。
「まだ全然考えてない……まだ2ヶ月あるし。そもそも誘ったところで一緒に過ごしてくれるかどうかも分からないし」
「あとたった2ヶ月です……まあ、私も人のことは言えませんが。誘う点については大丈夫ですよ。桜子姉は豪華なディナーとか光り物とか要求するタイプではないですけど、そういうのきちんと考えておいた方がいいですよ」
「君は僕の味方なんだよね? 一応確認しておくけど」
「桜子姉の味方に決まっているでしょう。今日のこれでダメなところ見つけたら、当然、桜子姉に報告しますよ」
「かなり情けない男として記録されているだろうから、まんま報告されると困る」
「安心してください。今日のお財布分は考慮します。デザートもいいですか?」
「その程度で済むのなら安いもんだ。じゃあ訊くけど、妹としてはお姉さんがどんなクリスマスを期待していると思う?」
すると祥子は真顔で答えた。
「誠意が感じられればそれでいいと思います。今の桜子姉が一番必要としているのは誠実さだと思うんです」
「誠実さか……面と向かって言われると自信がないな」
雄一は俯いて空になりつつあるパスタ皿を見た。
「誰だってそんなの自信ないでしょう。心がけ1つなんじゃないですか。しかし……そんなに私って桜子姉に似てます?」
「うん。明るいところで見るとなお似ているよ。お姉さんと一緒で美人だ」
祥子は照れたように俯いて、小さな声で言った。
「少しは大人になったってことなのかな」
「僕は今日会った君しか知らないからそこんところは周りに訊いて下さい」
「本当に佐野倉さんって面白い人ですよね」
祥子は照れながら笑った。
「そうかな、そんなことないよ。退屈だって言われるんだけど……ハハハ」
雄一が乾いた笑いをしているとカフェの扉が開き、新しい客が入ってきた。
「あらまあ、盛り上がってますこと」
聞き覚えがありすぎる声に目を向けるとそこには腕組みをした桜子の姿があった。
「え、なんで、桜子ちゃん……ええ? もしかしなくても祥子ちゃんが??」
先ほど携帯端末で料理を撮った後、しばらくいじっていたことを思い出し、ハッとした。
「佐野倉さんに人様の妹をナンパする勇気があるとは思わなかったけど、何このオシャレなお店? 私相手だったら入るのはきっと向かいの“かつや”でしょ?」
桜子は大変ご立腹の様子で、雄一は顔を強ばらせつつ答えた。
「確かに先月のデートの時は御徒町の高架下の定食屋でしたが、デミグラスハンバーグと半ラーメンの定食、美味しかったよね? 有名なお店なんだよ、あそこは」
祥子はテーブルに来たデザートに手を付けながら言った。
「今日仕事が終わったのなら桜子姉に一報入れても良かったと思いますよ」
「え、そうなの?」
「私もオーダーしていいかな? 佐野倉さんの奢りだって聞いたんだけど」
「う、うん……」
桜子は祥子の隣に座り、メニュー表を見るとデザートを含めて手早く注文を済ませた。
「同じ顔が並んでる……」
雄一が小さな声で言うと、桜子がプッと吹き出した。
「冗談に決まってるじゃない。怒ってなんかいないよ」
雄一は露骨に胸を撫で下ろし、祥子も口元を緩めた。
「せっかくだから3人で食べたいなって思いまして。佐野倉さんにはサプライズになってしまいましたけどね」
「そうだね、確かに3人一緒の方が良かった」
雄一は小さく頷き、今日、桜子に会えたことを密かに喜んだ。桜子が食事を済ませるまでの間、雄一と祥子はお茶を追加し、談笑を続けた。姉妹の会話を聞いていると知らなかった桜子の姿が垣間見られて雄一は嬉しく思えてきた。
一之江に戻るより葛西に出た方が早いので、祥子とはカフェの前で分かれた。別れ際に、姉の様子を教えて欲しいと頼まれ、祥子とアドレス交換をした。彼女は彼女で東京で1人暮らしをしている姉が心配なのだろうと思われた。
「妹とはどんなことを話したの?」
彼女の姿が見えなくなってから、桜子が口を開いた。細かいことを話したくないが、嘘をつくのも苦手だ。だから一部分を取り出して話した。
「自慢の姉だって言ってた。あとクリスマスはどうするのかって、さ」
桜子は目を丸くした。会話の内容は彼女にとって意外だったようだ。
「それでなんて答えたの?」
「まだ何も考えていないって。2ヶ月も先だって言ったら、たった2ヶ月だって怒られた。あと誠実に接すればいいんじゃないかともアドバイスされた」
「さすが我が妹。姉のことをよく分かってる」
桜子は満足げに笑み、雄一に目を向けた。
「じゃあ佐野倉さんはクリスマスに、どんな誠意を見せてくれるのかな?」
「だからまだ考えてないって。でも誠意は見せるよ」
「ふふ」
桜子は声を出して笑った。そしてXCバイクにまたがり、ペダルに足を乗せた。
「じゃあイブは予定を空けておこうかな」
そしてバイクを漕ぎだした。雄一は慌てて自分のバイクに乗り、彼女を追いかけ、叫ぶようにして訊いた。
「それってOKってことだよね?」
「あなたの他に誰か一緒にイブを過ごす人がいるのなら、教えて欲しいものね!」
彼女は前を向いたままそう答えた。ずっと恋をしたいと思っていた。そして彼女に恋をしていることを認め、今まさに動き始めた。この先どうなるのか、まだ全然分からない。けれど決して悪い未来であるはずがない。きっと彼女と一緒にいられる、共に歩める未来があるはずだ──と、今の彼は自然に信じられた。
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