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細野ゼミ 10コマ目(中編) 細野晴臣とテクノ(音楽ナタリー) – Yahoo!ニュース

【音声】YMO「イエロー・マジック・オーケストラ」US盤(他5件)

ゼミ生として参加しているのは、氏を敬愛してやまない安部勇磨(never young beach)とハマ・オカモト(OKAMOTO’S)という同世代アーティスト2人。毎回さまざまなジャンルについてそれぞれの見解を交えながら語っている。10コマ目のテーマとしてピックアップしているのは「テクノ」。全3回にわたる回の中編では、Yellow Magic Orchestra(YMO)期の細野の活動にフォーカスする。ワールドツアー開催に至った経緯、テクノカット誕生の舞台裏など、テクノに没頭していた時期のさまざまなエピソードをたっぷり語ってもらった。

取材・文 / 加藤一陽
題字 / 細野晴臣
イラスト / 死後くん

■ 小学生にしかウケていなかったYMO
──今回も、前回に続いてテクノミュージックについて学んでいけたらと思います。前回は、Kraftwerkの話、YMOの構想や機材のことなどを伺いました。今回も細野さんのテクノ期=YMOの話を軸にして、テクノへの理解を深めていければと思います。

ハマ・オカモト そもそも、直前まで全然違う音楽をやっていた細野さんがYMOのような音楽をやるっていうのは、よっぽどすごい理由があったのか。もちろん理由はあるとは思うんですけど、ここまでの音楽性の変化は、細野さんの感覚によるものなのか……。

細野晴臣 わからないんだよな(笑)。

安部勇磨 10代からバンドをやっていて、生で演奏をすることに対して、「新しさがないな」と思っていた時期はあったんですか?

細野 そういうのはないよ。行き詰まってたわけでもない。

ハマ お話を聞いていると、細野さんはもともとテクノポップをやることを目的にYMOを始めたわけではないじゃないですか。でも、それが脈々と伝わり、僕らはそれでテクノポップという言葉を知るというか、そういうジャンルの入り口になってる。それを考えると、面白いですよね。

細野 でも、当時はフォロワーがホントにいなかったんだよな、日本には。特に大人たちは冷ややかだったよ。

ハマ 以前、「1stアルバム(「イエロー・マジック・オーケストラ」)のUS盤が出たことによって向こうで受け入れられて、それが逆輸入的に日本での評判につながった」っておっしゃっていましたよね。

細野 そう、向こうでは「Firecracker」がすごく受け入れられたんだよね。黒人たちが喜んでくれて、R&Bチャートに入った。

──当時アメリカでは、一般的にマーティン・デニーのほうの「Firecracker」は知られていたんですかね?

細野 たぶん、原曲はあまり知られていなかったと思う。それでマーティン・デニーから電報が届いたんだよ。小ヒットしたんで、「ありがとう」って。あの電報、どこいっちゃったんだろうな。

安部 えええ!?

ハマ 貴重(笑)。YMOはArchie Bell & the Drellsの「Tighten Up」のカバーもやるじゃないですか。あれもYMOで知った人もいるだろうし。「『酒飲め、Sakamoto!』って、原曲でも言ってるのかな?」って思うくらい。ホントそういうきっかけも大いにあったんでしょうね。でも、日本ではリアクションはよくなかったと。

細野 全然よくない。「なんでコンピュータでやるんだ?」って質問ばかりで、音楽的な話は1回もされたことがないね。

安部 そういうのって周りからけっこう言われると、アーティストとしては不安に思ったりすると思うんです。細野さんは 「なんだよ、楽しいからいいじゃん」って気持ちで集中することができていたんですか?

細野 そうだね。それに「あっ、大人はダメだな」と思ったね。だって、「ライディーン」は小学生に特に受けていたんだよ。「あっ、日本では小学生なんだ」と思った。

ハマ 僕、ガラケーを使っていた世代なんですけど、ガラケーに標準の着信音として「ライディーン」が入っていましたからね。クラシック曲とかダース・ベイダーのテーマ(「帝国のマーチ」)とかと並んで。ばあちゃんの着信音でしたもん。だから「ライディーン」はケータイで初めて聴きましたよ。

細野 本当? 目黒駅前にパチンコ屋があってよく前を通るんだけど、「ライディーン」が聞こえてくることはあるよ。

安部 すごいな……。

細野 いずれにしても、ツアーから帰ってきたら「ライディーン」がすげえウケててね。小学生が後ろをつけてくるようになっているんだよ……びっくりしちゃったよね。予想外。

ハマ 「あ、YMOの人だ!」(笑)。

細野 大人でも相変わらず一部のファンがいることがわかってたけど、「ライディーン」が売れてるのは小学生が聴いているからで、大人たちはダメだった。ニューウェイブもテクノも20、30代はあまり反応してなかった気がする。年齢層は低かった。

──当時を知らない世代からすると、ハイソな方々だったり、カルチャー好きの若者たちに支持されていたんだろうなと思っていました。

細野 そんな感じもないんだよなあ。「小学校の頃に聴いていた」って人にもよく会うし。

安部 はっぴいえんどの頃は?

細野 はっぴいえんどは、それよりももっとひどい状態。だーれも聴いてない(笑)。

安部・ハマ あははは(笑)。

細野 なんの反応もない。ネットもないから、まったくフィードバックがない。自分たちで勝手にやって、勝手にやめちゃった。ずいぶん前に、はっぴいえんどの曲がCMで使われたり、再発があったりしたんだけど、その頃からなんとなく追っかけられてるなと思うようになったね。不思議だよ(笑)。

──1990年代前半くらいから、はっぴいえんどの再評価が盛り上がっていったような印象がありますね。

細野 あるときムッシュかまやつに、「自分がやってきたことを大事にしろよ!」ってすれ違いざまに言われたんだ。はっぴいえんどのことだと思うんだけど、それがずっと残ってるんだよ。そのあとずいぶん経ってから、はっぴいえんどの再評価があって。考えれば、確かに大事にしてなかったんだ。すっかり忘れてたんだよ。だから今思うのは、「そのときそのとき精一杯にちゃんとやっておかないとだめよ」って(笑)。売れることばっかり考えてやってたらそうはならない。

安部 YMOだって、テクノ云々というよりも、「すごい音楽やる?」っていう気持ちだったわけですからね。今日、落ち込んでるっていうか……反省しています……なんかもう、自分は浅いなって。

■ 盛り上がるテクノブームに感じた “パブリック・プレッシャー”
安部 海外だと大人や黒人の方に受けたけど、日本だと大人の人がわからず子供が反応するっていうのは、やっぱりYMOの音楽が純粋に楽しいとか、そういう理由なのかな。

細野 「BGM」っていうアルバム(1981年発表)を作るんだけど、そのときレコード会社は「2つ目の『ライディーン』を作ってくれ」みたいなこと言うわけだ。こっちはそれはやる気がないし、ひねくれてるから、そうじゃないものを作っちゃったわけ。

──「BGM」は“大人向け”というか、よりクールな作風ですよね。

細野 でも、「これも小学生が聴いちゃうんだろうな」と思って、注意書きを書いたんだ。「お母さんと一緒に聴いてください」って(笑)。

ハマ 経緯を知らずに聴いていましたけど、それを知るとめちゃくちゃ面白い。

──小学生に追いかけ回されるくらいYMOが世の中に浸透している……要するに、“テクノポップブーム”の始まりですよね。先ほど細野さんは「YMOにフォロワーはいなかった」とおっしゃっていましたけど、YMOが出てきてからテクノポップをやるアーティストも増えていたように思います。

安部 お茶の間とかでも、テクノポップの曲調自体は認知が広がったような気がしますが。

細野 うーん、ほとんどいなかったような気がするな。

──P-MODEL、プラスチックス、ヒカシューなどは“テクノ御三家”と呼ばれていましたし。

ハマ ジューシィ・フルーツとかもテクノポップのイメージがあります。

細野 僕の印象だと、いわゆるテクノ的なバンドはいなかった。その頃に何が流行ったかっていうと、僕からするとニューウェイブだね。プラスチックスとかさ。

──そのあたりの捉え方、面白いですね。

細野 テクノは本当にYMOしかいないんだよ。

──当時、シンセサイザーやリズムマシンを使っていればテクノポップだと思われているようなところあったんですかね?

細野 そういうところはあったかもしれないね。まあ、テクノブームは異常な現象だったよ。テクノカットも含めて。

ハマ みんな同じ髪型をするようになると思わないですよね。

──今でもテクノカットにしている方、普通に見かけますからね。

安部 テクノカットって、細野さんが始めたんですか?

──YMOがきっかけで流行したものですね。

安部 えええ!? そうだったんですか!? すご……!

ハマ “聖子ちゃんカット”よりも前じゃないですか?

細野 そうだね。3人でテレビを観ながら雑談してたときに、小澤征爾さんが北京中央楽団に乗り込んで演奏する番組をやっていて。それまで中国では、文化大革命でクラシックが禁止されていたんだよ。それが解放されて、小澤征爾が指揮をして。「へー」って思いながらテレビを観ていたら、中国人の演奏家たちがみんなテクノカットなんだ。さらに、もうね、演奏者の目が輝いているわけ。解放されて。「演奏できる!」みたいなね、ニコニコして、目がらんらんと輝いてて。それを見て、「これだ!」って思ったんだ。

安部 へええ。そういうのをみんなで面白がれるのがいいよね。でも直前まで、細野さんもわりと髪が長かったんですよね?

細野 ロングヘアーだったね。

ハマ 知ってる人からしたら、激変。ちょっと前に松本隆さんから聞いたんですけど、昔、松本さんは細野さんに「松本、もっと髪伸ばさないとダメだよ。詩人なんだから!」って言われたらしくて(笑)。これは松本さん節かもしれないですけど。

細野 エイプリル・フールの頃ね(笑)。時間がなかったのか伸びなかったのかは忘れてしまったけど、エイプリル・フールの写真を撮るときに、松本はカツラをかぶってた(笑)。

ハマ それから時を経て、ある日、細野さんがテクノカットで現れて、「そんな長い髪で汚いよ」と言われたって。「あなたに伸ばせって言われたのに」って(笑)。いずれにしても、周りの人も変わりようにびっくりしたでしょうね。YMOって、そういう部分も大事にされていたんだと思います。

細野 幸宏のアイデアが素晴らしかったよね。北京の演奏を観ていて、「例えば、ニューヨークのスティーヴ・ガッドとか、スタジオミュージシャンが中国的になったらどうなるんだろう?」と考えていたんだけど、幸宏が「人民服」って言い出して、実際に人民服のような服を作ってきちゃった(笑)。幸宏は洋服屋さんもやっていたから。

ハマ それが衣装になったんだ。

細野 で、ヘアーは、本多三記夫っていうスタイリストのサロンにみんなで行って。当時はまだ、Bijin(本多の運営するヘアサロン)はなかったけど。で、本多さんに「中国的な~」とか「全部そろえて」ってことを話したら、あの人、天才的だから……仕上がった髪型を見て「これだ」って思ったね。あの人がテクノカットを作ったようなもん。そのときはテクノカットなんて名前はないよ。

安部 その感覚すごいなあ。 “中国の人みたいに”って感覚からテクノカットになっちゃうのが。

──それがなかったら、オードリーの春日俊彰さんのテクノカットもなかったかもしれませんね。

ハマ 確かに今の世代の子からすれば、“春日カット”だと思う(笑)。

安部 そうだよね。それくらい、誰もやったことないものを新しく定着させたわけですよね。「みんな真似してる!」って思いましたか?

細野 僕らとしては面白くてやってるだけで定着させようなんて思ってないから、びっくりすることばっかりだったよ。だんだん怖くなってきたよね。当時は、女の子もテクノカットにし出したりして。「パブリック・プレッシャー」(YMOのライブ盤 / 1980年)のタイトルとか、当時の心境を表しているよ。

──テクノの音楽性の話からは脱線していますが、テクノの回でテクノカットの話が深まるのはアリですね。

ハマ 音楽に明るくなくても、テクノという言葉からテクノカットを連想する人はいると思う。

安部 代名詞的なところあるよね。しかし自分が生まれてから当たり前だと思ってたことはけっこう細野さんが作っていたもので……当時は名前もなかったものを定着させたって思うとすごいなって。

ハマ しかも、音楽をきっかけにしてできてるのはすごいですね。

安部 そうですね。なかったところから作って、音楽以外のことにも影響させているのはすごい。

──みんなカート・コバーンとかシド・ヴィシャスの真似をしてるみたいな、それに近いことですよね。

ハマ 破れたセーター着るのがカッコいい、みたいな。

安部 カッコいいなあ……。

ハマ がんばれ。俺が言うことじゃないけど(笑)。

■ YMOワールドツアーの裏話
──“現象”と言えるほどブレイクしたYMOですが、そもそもユニットを始める際は、所属レーベルだったアルファレコードとの話し合いなどもあったと思います。

細野 そうだね。アルファレコードを創設した村井(邦彦)さんは、アメリカのショービジネスに強い憧れがあったんで、アメリカ的なビジネスをやることに野心を持っていたんだよね。のちにアルファアメリカを作るんだけど、僕はそのときに呼ばれて、プロデューサー契約をしたんだよ。英語で「I can do anything for you」って言われて、「なんだ?」と思った(笑)。プロデューサー契約なんて当時の日本にないから。そのとき“アドバンス”って言葉も初めて聴いたよ。「アドバンス払うから」って言われて……「ああ、前払いか」って(笑)。

安部 細野さんには野心はあったんですか? 「海外でいっぱいライブしたい」とか。

細野 ないない。レコーディングのことしか気にしてなかったよ。でもYMOの1枚目を作ってる頃、紀伊國屋ホールでやった「フュージョン・フェスティバル」っていうイベントに出たんだ。それがYMO最初の舞台で、そのときはフュージョンバンドのフリをして出た(笑)。それをトミー・リピューマが見ていて、僕らに興味を示したんだよ。

──トミー・リピューマはアメリカの名プロデューサーで、ジョージ・ベンソンをヒットさせたことで特に有名です。YMOを世界に広めたことでも知られています。

細野 トミー・リピューマは、A&Mレーベル(アメリカの音楽レーベル)の傘下で、ホライズンっていうレーベルを始めたばかりだった。ドクター・ジョンとかが移籍したりしてきて、ヘンテコリンなレーベルだった。で、それまでA&Mレーベルは日本ではキングレコードと契約していたんだけど、YMOの1作目を作っているときに、A&Mがアルファに移ったってニュースを知ったんだ。そういう経緯があって、「1枚目はA&Mから出すことになるんだろうな」ってなんとなくわかっちゃったわけ。その後は1カ月、2カ月単位でいろいろ話が展開していって、川添象郎(音楽プロデューサー)さんって人が入ってきてツアーを計画して、あれよあれよという間にワールドツアーに出ちゃった。だから、ワールドツアーは村井さんの考えなんだよね。

ハマ 周りのスタッフ陣にとっても、ビッグプロジェクトだったという。

──細野さんが幸宏さん、坂本さんにYMOの構想を伝えるときは、海外でツアーを行うことも想定されていたんですか?

細野 レコーディングだけしか考えてなかった。でも、そんなに日本では受けないけど、音楽好きや“モノ好き”が、1つの国につき数パーセント、数万人はいるだろう、と。そういう人たちを相手にしようよって始めたんだよね。ビジネスよりも、“音楽好き”のほうが勝っていたから。ただ、「いい音楽はちゃんと届くだろう」という信念はあった。っていうのは、小学校、中学校、高校とヒットチャートを聴いて育ってきたから。ヒットチャートはみんないい曲だったからね。今と違うんだよ、それが(笑)。

ハマ いい曲がちゃんとヒットチャートに入っている。

細野 そうなんだよ。当時は、チャートに入っていない曲を聴くとつまんないんだよ、やっぱり。だからいい音楽を作りたいっていう野心はあったんだよね。それが売れるかどうかはわからないけれど。

──細野さんの音楽家としての野心と、周囲のビジネスマン的な野心が合わさって、YMOという大きなムーブメントが生まれたんでしょうね。

細野 そう。アルファレコード自体はユーミン(荒井由実)が大ヒットしていたこともあって、順調だったわけだよ。それもあってか、僕らがツアーをやるときも、“Aクラス”のツアーを組んでくれてね。誰も僕らのことを知らないのに。だからやるたびに物議を醸していたわけ(笑)。

ハマ 「なんだったんだあれは」っていう(笑)。

細野 一番素直に受けたのはイギリスだったな。現地の人たちは、ああいう音に慣れていたのかな。

■ 細野晴臣は音楽が好きすぎる
安部 ハマくんは音楽をやっていて、野心とかない? 「あんなところでライブができたらいいな」とか、勝手に景色を想像してさ。「好きで作ってるだけで、周りは関係ねえ」って状態になりたいとか。

ハマ 俺はあんまりない。「武道館で絶対やる」とか「海外に絶対行く」とかもないね。もちろん人によるんだろうけど。

安部 細野さんの話を聞いていて、本当に天才だなと思って……“天才”なんて言いたくはなかったですけど(笑)、天才なんだなって。深く自分を見つめて、社会とはまったく関係なく自分の好きなことを突き詰めて、そうしているうちに、何かの運命で、違うところからYMOを海外のビジネスにしたいという人が出てきたりして。でも今は「◯◯に行きたい」とか、自分で明確に意思を表現しないと実現しない世界なのかな。意思表示をしないと、誰も組んでくれないというか。

細野 運命というか、あの頃は世の中に勢いがあったんだよ。日本自体に。戦後のピークの時代だったからね。バブル以降、全部崩壊しちゃった。今なんて、その崩壊のあとの、“1ドル140円”の世界だよ(笑)。

安部 でも、“時代が違う”ってことに甘えてはいけないというか。これだけいろんなことに出会える社会でもあるけれど、“自分のことを掘る”ってことをちゃんとやらないといけないなって。細野さん、はっぴいえんどとかがどんどん再評価されたときもそうだし、YMOで世界ツアー行ったときとかも、天狗じゃないですけど、「俺すごいのかも」って思った時期とかないんですか?

細野 なんかね、自信がないんだよね。いつも。

安部 はああ……(笑)。

ハマ それがこのゼミの中でも細野さんからすごく出てくるワードだよね。僕らが細野さんの好きなポイントでしかないんですけど。

細野 だって自分と音楽の関係って、本当に“ただ好きすぎる”ってだけで、続けている根拠がそれしかない。それしか拠りどころがないからそう言うしかない。好きだってことだけは誰にも負けないつもりだよ(笑)。

ハマ ホント、そういうことなんですよね。前、あっこゴリラが細野さんに「細野さんもギャルなんですね!」って言ってた(笑)。細野さんのことを“ギャル”って言ったのはたぶんあの人しかいないんだけど、「音楽が好きすぎる」って、言葉を言い換えるとそういうことだなって。

──なんだか最終回のような雰囲気になってしまいましたが(笑)……まだテクノミュージック編の途中です。次回はサウンドにフォーカスした内容に軌道修正しながら、ダンスミュージックとしての“テクノ”について触れていきたいと思います。

<近日公開の後編に続く>

■ 細野晴臣
1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。2018年には是枝裕和監督の映画「万引き家族」の劇伴を手がけ、同作で「第42回日本アカデミー賞」最優秀音楽賞を受賞した。2019年3月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」を自ら再構築したアルバム「HOCHONO HOUSE」を発表。この年、音楽活動50周年を迎えた。2021年7月に、高橋幸宏とのエレクトロニカユニット・SKETCH SHOWのアルバム「audio sponge」「tronika」「LOOPHOLE」の12inchアナログをリリース。9月にオリジナルアルバム全3作品をまとめたコンプリートパッケージ「”audio sponge” “tronika” “LOOPHOLE”」を発表した。

・hosonoharuomi.jp | 細野晴臣公式サイト
・細野晴臣 | ビクターエンタテインメント
・細野晴臣_info (@hosonoharuomi_)|Twitter
・Hosono,Haruomi (@hosonoharuomi_info) ・Instagram写真と動画

■ 安部勇磨
1990年東京生まれ。2014年に結成されたnever young beachのボーカル&ギター。2015年5月に1stアルバム「YASHINOKI HOUSE」を発表し、7月には「FUJI ROCK FESTIVAL ’15」に初出演。2016年に2ndアルバム「fam fam」をリリースし、各地のフェスやライブイベントに参加した。2017年にSPEEDSTAR RECORDSよりメジャーデビューアルバム「A GOOD TIME」を発表。日本のみならず、上海、北京、成都、深セン、杭州、台北、ソウル、バンコクなどアジア圏内でライブ活動も行い、海外での活動の場を広げている。2021年6月に自身初となるソロアルバム「Fantasia」を自主レーベル・Thaian Recordsより発表した。2022年9月21日にnever young beachとしてニューシングル「こころのままに」を配信リリースする。

・never young beach オフィシャルサイト
・Thaian Records
・never young beach (@neveryoungbeach)|Twitter
・Yuma Abe (@_yuma_abe) ・Instagram写真と動画

■ ハマ・オカモト
1991年東京生まれ。ロックバンドOKAMOTO’Sのベーシスト。中学生の頃にバンド活動を開始し、同級生とともにOKAMOTO’Sを結成。2010年5月に1stアルバム「10’S」を発表する。デビュー当時より国内外で精力的にライブ活動を展開しており、2021年9月29日にニューアルバム「KNO WHERE」をリリース。またベーシストとしてさまざまなミュージシャンのサポートをすることも多く、2020年5月にはムック本「BASS MAGAZINE SPECIAL FEATURE SERIES『2009-2019“ハマ・オカモト”とはなんだったのか?』」を上梓した。

・OKAMOTO’S OFFICIAL WEBSITE
・ハマ・オカモト (@hama_okamoto)|Twitter
・ハマ・オカモト (@hama_okamoto) ・Instagram写真と動画

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